《地蔵堂修繕》2016/インスタレーション

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《地蔵堂修繕》2016/インスタレーション


地蔵堂修繕解説

災害、伝説、共同体の記憶。様々な文脈が息づく倒壊寸前の抜け殻となった地蔵堂は、作家の手によって、その記憶を留めつつ変態を遂げた。 外観で一際目を引く「青い塗料」は、小名浜を語るに欠かせない水夫たちの船舶に使用されているものである。加えて、地蔵堂近隣に鎮座する海亀と海蛇を祀る諏訪神社の鳥居も同種類の青で着色されている。この艶やかな青は、水夫たちに彼らの誇りである海を、近隣住民には諏訪神社にまつわる個人の記憶を思い起こさせることだろう。

建物の中腹には半透明の波板が配置されており、地蔵堂内部に降り注ぐ外光を追うと、歪んだ「六角形の像」がうかがえるようになっている。正面口には移設された扉の代わりに「影」としての新設された扉が入口を塞いでおり、修繕された現在の地蔵堂の出入口は裏手にある。身を屈めるようにして入口をくぐると、ところどころ破けた鰐口が吊るされ、隅には「地蔵盆」での清め塩が置かれた狭い異空間へと観賞者は誘われる。

空間の中では、すきま風とそれに揺られ軋む木材と自身の息づかいが交差する。沈黙の中、観賞者は「六画台座」に向き合う。この台座の上に「子育延命地蔵尊堂」は鎮座していた。災害の犠牲となった水夫たちの鎮魂の場として、もしくは田植えをする若い夫婦の代わりに子守りを助けた地蔵の伝説を言い伝える場として、地蔵堂は機能してきた。そして、史実と伝説の中心である地蔵尊像の不在によって、観賞者はこの「六画台座」に、見える筈もない像の姿を見るだろう。

修繕された本作品は、最終的に作家自身によって解体される。そして、解体された地蔵堂の残骸は、新たな建築物の血肉として、 破壊を担った作家の手によって再び生を与えられることなる。すなわち、 建物の残骸を集積し、別の資材と混ぜ合わせることで、全く異なる建造物を製作しようというのだ。そしてそのプロセスは、作家がその手を止めるまで、半永久的に繰り返される。

姿を変えながら、ひとつの場所に留まることなく空間を移動し続けるこのフローの中でこそ、建物は生き続ける。小名浜の地で只解体を待つのみだった未来から分岐し、その存在を朽ちさせるまで、生を全うするのだ。地蔵堂に刻まれた小名浜の死者と生者の記憶は、別の文脈 に接続されることになるかもしれない。そしてその偶然の出会いは、作家の思考の範疇を越え、メタモルフォーゼを遂げ、 一つの生命体として独立することだろう。


子育延命地蔵尊堂由来および経緯

旧秀明院(ルビ:しゅうみょういん)跡地に子育延命地蔵尊堂は「ある」。もしくは「あった」。同寺は明治5年、廃仏毀釈の波を受け廃寺。明治13年に関係者が再興を願い出るが翌14年あえなく却下されている。明治22年の古地図にはその姿を留めるものの、その最期は不詳だ。

ここにこの地の変災に関する或る資料がある。

「頃者、弘化四丁未年(一八四七)六月十七日出帆後、帰帆ニ相成候所、俄ニ立波ニ募数般之漁舟、難凌入事不叶、此日昼六ツ半時頃より、雨繁り、大立波、風雨、嵐募、夜四ツ半時頃より大雷雨嵐、弥々募り、数般之漁船吹飛され、俄ニ破船致、其数相不判、水戸平磯浜より岩城四ツ倉浜迄之漁船、小名浜浦ニおいて一時之内ニ破船致し、其有様筆紙ニ茂哨ニも難尽、流死水主数多、翌十八日より七月迄、死骸寄上り候事日々七月迄、関田浦より四ツ倉浜迄寄上り候、当浜ニおいて取上葬り流死水主之ため、石地蔵浜々ニ而建申候、的而他領分之者者、相不判、御料所斗之人数、御運上方より御公儀様江書上候分記ス凡八百人余」
(「天保七年-文久二年凶作」小名浜字中明神町 佐川竹雄氏蔵)

平易に内容を述べれば以下のようになるだろう。

弘化4年(1847)6月17日、漁船が操業を終え帰帆の頃、にわかに波高まって陸に戻ることができない。やがて雨も強まって23時頃には大嵐となった。平磯から四倉までの漁船が小名浜浦でみるみる破船し、多くの水主(船方)が流死した。翌18日より7月まで、関田から四倉の浜に日々死体が打ち上げられ、小名浜に上がったものに関しては、それぞれの浜に地蔵を建てて供養した。幕領小名浜管外は不明であるが、管内12ヶ村でおよそ死者800名という報告である。

郷土史家・小野佳秀氏はこの災害の際、小名浜四ヶ村(米野、中島、中町、西町)にそれぞれ地蔵尊像が建立されたとし、うち中島村のものが当該地蔵尊像だと比定している。また同氏は、他三ヶ村に関しても地蔵は現存するという見解を示し、それぞれ冷泉寺(米野)、地福院(中町)、霊人塚(西町)の地蔵尊像を挙げている。

近世小名浜における高波被害に関しては2つのものが有名だ。元禄 9(1696)年、そして前述の弘化4(1847)年である。

「元禄九年子之六月廿七日昼八ツ時ヨリ大波立嵐強キ四ツ倉迄濱之船破損して舟方浦々ニテ都合弐千四百五拾人余り打果同七月まで海中より死骸引揚ケ塚を築」
(「磐城平九代記」より抜粋)

元禄9年(1696)6月27日、14時頃から大波が立って、四倉までの浜の船は破損。2450名余りの船方が犠牲となった。7月まで海中から死骸を引き上げ、そして塚を作った。この際、四倉と小名浜に千人塚を築いたと伝わるが、そのひとつ「溺死聖霊供養塔」が、後述する近隣の安養院(ルビ:あんにょういん)に現存する。また同寺墓地には「元禄九年六月」の銘が刻まれた延命地蔵尊があり、巨大な災害後の鎮魂の場となったことが予想される。

文献は少ないものの、この地は幾度となく津波・高波に晒されてきたに違いない。小野佳秀氏の説をとるならば、旧秀明院の地蔵堂もまた、そのような祈りの場のひとつであっただろう。

またこの地蔵には、文脈の異なる以下のような伝説がある。

昔々、田植えの時期であった。若い夫婦が、この田んぼは今日中に終わらせてしまいたいと、乳飲み子を畔に寝かせ懸命に苗を植えていた。やがて泣き出すと、どこからともなく見知らぬ女が現れ、田植えが済むまで子守りをしてくれる。礼を言おうとすると立ち去ってしまった。後を追うと女は秀明院の境内で消えてしまう。不思議に思ってあたりを探すと、地蔵様の台座には畔の泥が付いていた。「さては化身して助けてくださったか」と、母親は手を合わせ、その地蔵様に深く深く感謝申し上げたという。

忙しい夫婦を助けた地蔵は現代に至るまで近隣住民に親しまれ、旧秀明院と縁の深かった安養院が毎月24日の縁日にお祀り申し上げていた。また関東以北では非常に珍しい「地蔵盆」も営まれ、水子総供養の大法要が執り行われる他、地域最大規模の柴灯大護摩祈祷会(火渡り)が催されるなど、その霊験あらたかなるを聞き及んだ遠方からの来訪者が絶えない。

さて、この地蔵像が安置されていた堂宇であるが、棟札によれば、現堂宇は「子育延命地蔵尊堂」と称し、昭和27年(1952)8月23日に再建されたものである。

旧秀明院を偲ぶ唯一の遺構でもあったが、私有地にあり、それが売却されたことで立ち退きを余儀なくされた。本年(2016)6月10日、地蔵尊像一体、棟札一面、石塔二基、供物台一基、鈴一式、扉一対、および堂内に保管されていた上町の大数珠一式が安養院へと引き取られ、仮の堂宇に安置された。安養院は現在、本堂新築・境内総整備の大事業に取り掛かろうとしており、いずれは現本堂跡地に新たな地蔵尊堂が建立される予定である。

空となった地蔵尊堂はすぐさま解体される予定であった。しかし幾つものコンテクストが折り重なるその「場」に、カオス*ラウンジが最後の展示を試みる。現所有者である不動産業者と交渉し、芸術祭会期終了までの猶予をとりつけた。

しかしここで問題が生じる。これまで60有余年、浜特有の激しい風雨に耐え抜いてきたはずの地蔵堂が、主である地蔵尊像と扉を失ったことからか急速にその強度を失っていったのだ。更に8月22日、小名浜測候所で瞬間最大風速34.3メートルを記録した台風9号により、堂宇は左方向に大きく捩じれ、信じがたい程に傾いてしまった。隣家より「即刻取り壊すべし」の声が上がる。危険を認めた不動産業者はすぐさま解体を宣言し、また折悪しく「伊勢湾台風並み」の勢力を持つという歴史的な台風10号が迫って来ていた。不測の事態には全責任を負うという条件で、取り壊しの更なる延期を取りつけたカオス*ラウンジは、急遽、アーティスト秋山佑太をチーフとする倒壊防止作業に取り掛かることとし、それと同時にその修復自体が秋山の作品の重要な一部となることが了解されていった。

作業初日は奇しくも安養院の地蔵盆「柴灯大護摩祈祷会」にあたった。秋山以下作業スタッフは集った地域住民と共に火渡り勤行を行い、清め塩をいただいてその作業へと着手したのであった。


テキスト協力・江尻浩二郎、小林太陽